定食屋の窓から

定食屋の窓から


第一章 山口食堂

 山口食堂は、国道から一本入った細い道の角にある。

 看板は昭和五十年代から変わっていない。白地に黒い文字で「山口食堂」と書いてあるだけで、電飾もネオンもない。ガラスの引き戸を開けると、カウンターが六席と、四人掛けのテーブルが二つ。厨房との境に暖簾が下がっていて、奥から揚げ物の匂いがする。

 店主の山口文男は、五十四歳だった。

 父親から店を継いで二十六年。毎朝六時に起きて仕込みをして、十一時に開けて、二時に昼の部を閉めて、五時に夕方の部を開けて、九時に閉める。日曜日と、月に一度の月曜日が定休日。それ以外は毎日、変わらずに店を開けてきた。

 文男には妻がいた。

 麻子といって、二十年間一緒に店に立ってきた。接客は麻子がやって、文男は厨房に籠もりきりで料理をする。そういう分担だった。しかし三年前、麻子が脳の病気で倒れ、今は自宅で療養している。歩けるし、話せるが、長時間立つことは難しい。麻子は店に出られなくなった。

 文男は一人で店を続けた。

 接客も自分でやった。料理しながら注文を取り、料理しながら会計をする。忙しい時間帯はてんやわんやになるが、客の数が昔より減っていたので、何とかなっていた。

 三年が経った。

 この三年間、文男に特別な出来事はなかった。麻子は少しずつ回復していたが、店に復帰できるかはわからない。娘は大阪で就職して結婚し、孫が生まれていた。息子は東京で働いていて、正月に帰ってくる。文男は毎日店を開け、麻子の食事を作り、夜に二人でテレビを見て眠った。

 そういう日々だった。

 変化が起きたのは、四月の初めだった。

 昼の時間、カウンターに初めて見る男が座った。

 年齢は文男より少し若いくらい、四十代の後半か。紺のジャンパーを着て、日焼けした顔をして、どこか疲れた目をしていた。

「日替わりを」と男は言った。

「ライスは普通でいいですか」

「少なめで。最近、食が細くて」

 文男は厨房に入り、その日の日替わりの鯖の味噌煮を仕上げた。小鉢には切り干し大根の煮物と豆腐の味噌汁。盛り付けて、カウンターに出した。

「どうぞ」

 男は静かに箸を取り、食べ始めた。特に何も言わなかった。食べ方は丁寧で、急いでいなかった。味噌汁をゆっくりと飲み、鯖の身を少しずつほぐして食べた。

 食べ終わって会計をするとき、男は言った。「旨かった。久しぶりに、ちゃんとしたものを食べた気がします」

「ありがとうございます」と文男は言った。

 翌日も、男は来た。

 今度は夕方の部に来て、唐揚げ定食を頼んだ。また静かに食べ、また「旨かった」と言って帰った。

 三日目に、文男は聞いた。「この辺に引っ越してきたんですか」

「ええ、先月。国道沿いのアパートに」と男は言った。「田中といいます。田中秀夫」

「山口です。よろしくです」

「よろしくです」と田中は言った。少しだけ笑った。それが最初の笑顔だった。

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