秋の定食

第五章 秋の定食

 九月になると、山の木が色づき始めた。

 山口食堂の窓から、遠くの山の稜線が見える。その稜線が毎年この季節に赤や黄色に染まる。文男は子どもの頃からその景色を見てきた。飽きない景色だった。

 田中は夏の間、ほぼ毎日手伝いに来た。

 洗い物と掃除だけのつもりだったが、いつの間にか仕込みの下ごしらえも手伝うようになっていた。野菜を切る、米を研ぐ、出汁を取る。文男が教えるわけでもなく、田中が見ながら覚えていった。

「料理は好きですか」と文男は一度聞いた。

「やってみると、面白い」と田中は言った。「考えなくていいのが好きです。野菜を切るときは、野菜だけを考えていればいい。他のことが頭から消える」

「それはわかる気がします」

「文男さんは、ずっと料理が好きだったんですか」

「好きというより、慣れた。最初は父親の仕事を手伝っていただけで、自分が選んだというより、そうなった。でも今は好きだと思う。誰かが食べてくれると、嬉しい」

「俺も、最近そう思います。田中さんが食べてくれると嬉しいって、言えますか」

 文男は少し笑った。「言えますよ」

 十月に、田中が正式に住むことを決めたと言った。

「東京には帰らないと決めました。この町に住む。何をするかはまだわからないですが、何かを見つけようと思う」

「それはよかった」と文男は言った。

「厚かましいかもしれませんが、もう少し手伝わせてもらえますか。今度は、ちゃんとお金をもらいながら」

「もちろんです。むしろこちらが頼みたかった」

 その日の夕方、いつもの常連たちが揃った。林さん、峰岸さん、前田さん夫妻、岸本さん。田中が接客を担当して、文男は厨房に入った。

 外は秋の夕暮れで、山の稜線がオレンジに染まっていた。店の窓から、その色が見えた。

 林さんが「田中、もう帰らんのか」と聞いた。

「帰りません」と田中は答えた。

「そりゃよかった。ここに根付く人間が増えるのは、嬉しい話だ」

「根付けるかどうか、まだわかりません」

「根付くっていうのは、長くいることじゃないんだよ」と林さんは言った。「ここに戻ってきたいと思う場所があれば、それが根付いてるっていうことだ。あんたは毎日ここに戻ってきていたじゃないか」

 厨房の中で、文男はそれを聞いていた。

 今夜は秋刀魚の塩焼きと、里芋の煮物と、豚汁。季節の食材で作る、何も特別でない定食。それをここ何十年も作り続けてきた。

 麻子が病気になってから、文男は一度だけ店を閉めようかと思ったことがあった。しかし翌朝店を開けると、林さんが来た。峰岸さんが来た。前田さん夫妻が来た。それぞれがそれぞれの席に座って、普通に注文した。

 それで閉める気がなくなった。

 来てくれる人がいる限り、開けていればいい。

 文男はカウンターに定食を並べた。湯気が上がる。秋刀魚の塩焼きの香りが店に広がった。

「どうぞ」と田中が言った。常連たちが箸を取った。

 山口食堂の窓の外に、秋の夕暮れが広がっていた。

 来年の春も、夏も、また秋も、この景色はここにある。そういうことが、少しずつ大切に思えるようになった秋だった。

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