第三章 常連たち
六月になると、雨の日が増えた。
山口食堂の窓は古い一枚ガラスで、雨の日は外の景色が滲んで見える。田中はそういう日も来て、いつもの席で窓の外を眺めながら食べた。
昼の時間には、いつも決まった常連たちが来た。
林さんのほかに、近所で電気店を営む峰岸さん、七十代の老夫婦の前田さん夫妻、郵便局に勤める若い女性の岸本さん。それぞれがそれぞれの席に座り、それぞれのペースで食べる。会話があるときもあれば、それぞれが黙って食べることもある。
田中はそういう常連たちの中に、徐々に溶け込んでいった。
最初は誰とも話さなかったが、林さんがしつこく話しかけるうちに、少しずつ応じるようになった。田中は聞かれたことには答えたが、自分から話題を振ることはほとんどなかった。しかし一度だけ、自分から話し始めたことがあった。
その日、前田さん夫妻が、老夫婦なりの小さな夫婦喧嘩をしていた。夫の前田さんが箸の置き方が乱暴だと妻に叱られ、「何十年も言われてきた」と苦笑いしている。そういう光景を見ながら、田中が独り言のように言った。
「いいですね」
前田さんの妻が「何がですか」と聞いた。
「喧嘩できる相手がいるのが」
テーブルに少し沈黙が落ちた。文男は厨房から聞いていた。
「あなた、奥さんは」と前田さんの妻が静かに聞いた。
「別れました。去年」と田中は言った。「向こうから言われて。俺が仕事ばかりしていたから。会話がなかったと言われた。その通りだった。反論できなかった」
「それでここに来たんですか」と峰岸さんが聞いた。
「東京にいる理由がなくなった。仕事も、去年辞めて。二十年勤めた会社を。体が壊れる前に辞めないといけないと思って」
「二十年」と林さんが言った。「それは大変だったな」
「大変だったと今は思う。でも当時は、それが普通だと思っていた」
文男はカウンターに出て、田中の前に小さな器を置いた。漬物だった。特に意味はない。ただ何かを置きたかった。
田中は「ありがとう」と言った。
その日以来、田中と常連たちの間に、薄い橋がかかったような気がした。
七月の初め、田中が昼に来て、食べながら文男に言った。「少し、ここで働かせてもらえませんか」
「働く、というのは」
「お金は要りません。手伝いがしたい。何でもいい。洗い物でも、掃除でも。一人で店をやっているのは大変でしょう」
文男はしばらく考えた。
「奥さんのことは聞いていたか、田中さん」
「知りません。でも一人でやっているのは見ていてわかります」
「お金は払いますよ。タダでは使えない」
「じゃあ昼飯を食わせてもらえれば、それで十分です」
文男は少し笑った。変な申し出だったが、断る理由もなかった。それ以上に、少し嬉しかった。

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