第二章 田中秀夫の事情
田中が来るようになって二週間が経った頃、文男は田中のことを少しずつ知るようになった。
会話が増えたわけではない。田中は口数が少なく、食べている間は基本的に無言だった。しかし文男が問いかけると、短く答えた。文男もそれ以上は聞かなかった。定食屋というのは、客の話を聞く場所であって、詮索をする場所ではない、というのが文男の信条だった。
田中は東京から来たことがわかった。
東京で何をしていたかは言わなかったが、この町に来た理由については、ある日さらりと言った。「疲れて、逃げてきた」と。文男は「そうですか」とだけ言い、話題を変えなかった。逃げてきた、という言葉を、特別に扱わないことが大事だと感じたからだ。
田中は毎日来た。昼か夕方、どちらかの時間に必ず来た。来ない日は一日もなかった。
常連になるのが早い客というのがいる。最初から店に馴染む客。田中はそういう客だった。カウンターの一番端の席に座り、窓の外を見ながら食べる。その姿が、やがて店の風景の一部になった。
ある日、田中が来たとき、先客がいた。
地元の農家の林さんで、六十代の大柄な男だった。林さんは話し好きで、誰とでもすぐに話しかける。田中のことを見て、「新しい顔だな、どこから来た」と言った。
田中は少し間を置いてから「東京です」と言った。
「東京か。何しに来たんだ」と林さんは聞いた。悪気はなく、ただの好奇心から言う人間だということは、文男にはわかった。
「少し休みに」と田中は答えた。
「休み? この辺で休んでどうする。何もないぞ」
「何もないのがいいんです」
林さんはその答えに少し面食らったようだったが、すぐに笑った。「そういうもんか。まあ、ゆっくりしていけ」と言った。
田中が帰った後、林さんが文男に言った。「あの人、何かあったんじゃないか。目が疲れてる」
「そうかもしれませんね」と文男は言った。
「でも旨そうに食うよな。あんたの飯を、本当に旨そうに食う」
「食べてくれると、こちらも嬉しいですよ」
五月の連休が過ぎた頃、田中が夕方の部に来て、珍しく少し早い時間に帰ろうとしなかった。
閉店間際の時間、カウンターに田中一人だけが残った。文男が片付けをしながら「もう一品、何か食べますか」と聞くと、田中は「いいんですか」と言った。
「せっかくだから。余っている材料で、何か作りますよ」
文男はその日の残りものから、卵とじを作った。鶏肉と玉ねぎと卵を合わせた、ただのそれだけの一品。茶碗に盛って出した。
田中は一口食べて、少しの間黙っていた。
「これ、母親が作ってくれたやつだ」と田中は言った。
「そうですか」
「何十年も食べていなかった。母は十五年前に死んで。久しぶりに食べた気がする」
文男は何も言わなかった。そういうとき、言葉は余計だと知っていた。ただカウンターを拭きながら、田中が卵とじを食べ終わるのを待った。

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